1-2 日本との最初の出会い

時を同じくして、福岡教区のドメニコ深堀仙右衛門司教に香港のカノッサ会シスターズの活動を知る機会がありました。司教は、とりわけ、若者たちが群がっているカノッサ会学校を見て感嘆しました。
牧者の心を掻き立てられた司教は、同じような学校を彼の教区のために欲しいと思いました。カトリック学校で若者を教育することで、日本にもキリスト教精神が容易に浸透していくという確信を持っていたからです。

 


深堀司教はカノッサ会香港委任区のM.アントニエッタ・ノヴェッロと連絡を取り、カノッサ会シスターの来日を受け入れるようローマのM.アントニエッタ・モンゾーニ総長に書きます。
 
 

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1-1 1950年代

1939年から1945年にわたって繰り広げられた世界大戦は全世界を真に転覆させました。

 


多くの人々は自らの選択によって、あるいは、やむを得ず、地方から地方へ、国から国へと移動していきました。こうして、異なる地方、異なる国の人々が近くから出会い、互いに知り合い、互いに相手の国や地方にある知恵の宝から学びあうことになりました。


 
とりわけ、キリスト教の宝は、当時 まだキリストが知られていないところ、及びも付かないところまで、瞬く間に広がりました。カノッサ会シスターズは1860年より、中国で活動していました。

 

 

1860年、香港からホーナンとシェシー地方に入っていきました。学校、病院、診療所、孤児院、カトリック理研修などの活動をしていました。

 

 

1940年の戦争において、ホーナン地域は最強の試練を受けました。ハンカオの町だけでも、学校と病院(その町での唯一の病院でした)は崩れ落ちました。シスターたちの中にも犠牲者が出ました。

 

 

すぐ後に、活動は再開しました。破壊、倒壊した家に順応し、第一に必要なものを建てて、新しく再開しました。

 

 

毛沢東専制政体によって、中国領土から宣教師たちの流出が始まりました。カノッサ会シスターたちは同じ境遇に置かれ、香港に向かったのです。

 

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序文

序文
 
日本における私たちの修道会設立当初の歩みを書くように頼まれたとき、それは私にとっていとも容易なここと思えました。なぜなら、当時のことが現在のことのように見えるからです。それで、私は喜んで書き始めました。とはいえ、私は書きながら、多くのことがらや人たち、出来事を思い出し、それらの記憶は編みこまれていることに気づきました。
 
    どのように全てを書くか。
    全てを書く必要があるか。
    全てを書くのがよいのか。
 
当時の人にとっては、山のように思えたことも、何年もすぎた後では何の意味をも持たない出来事があります。心だけで理解できることもあります。たとえすばらしい文章で書かれていても、他の人たちは何も理解しないことがあります。
 
マドレ アンネッタが冗談で言っていました:「主は全てをご存知です。他の人がそのことを知っていようが知っていまいが、問題ない」
 
ここに書かれていることは、皆さんがすでにご存知のことです。皆さんの中には創立当初のマドレ方の近くにいて共に活動した人がいらっしゃると思います。私は一つのことだけを言いたいと思います。

 

神の描かれたご計画を心に留めましょう。神秘です。神は カノッサ会が来日してから今日に至るまで私たちを導いておられるのです。奇跡です。

 

主はたった一人の魂を救うためにも、ほとんど世界を動かされます。
第二次世界大戦が活かされました。国々と人々の間を符合させました。神は災難からも全を引き出すことがおできになるということです。そして、「神の栄光がよりよく現されるように、取るに足りない人間的手段をも役立たせられます」(聖マダレナ・カノッサ

 

創立者の言葉に「私たちはつまらない女性です」という言葉がありますが、マドレ・フラングエッリは何度もこの言葉を繰り返していました。それは私たちが心の底から感じていた現実でした。
 


この国の言葉が分からないこと
私たちの習慣と全く異なっているために、日本の習慣が分からないこと
日本における教育に準備されていないこと
 


深堀司教様はよくおっしゃっていました。「皆さんは学校の廊下を歩いて姿を見せてください。それで十分です…」


香港で上長たちは状況をよく理解していました。そして、「日本で学校です。そうです。でも、折を見て。今のところ行って準備してください」と言っていました…しかし、主のお望みは即刻でした。延期しないことでした。

 

司教様は「学校はすぐに」と繰り返しおっしゃいました:「皆さんは廊下を歩いてください。しかし、私はすぐ、学校が欲しいのです」
 


この4人のつまらない女性たちは、建設予定の「明光学園」を建設するのも、設立するのも彼女たちではないことをまさに、直接 体験し、理解することになりました。

 

今日においても、私たちよりも大きな困難に出会う時に、すばやく受け入れて立ち上がるように、神の御力の神秘を感じます。
 


私たちはいつも主によって望まれた事業のうちに働くこと、明光学園を大きくするのは私たちにできることではなく、主であることを自覚しています。学校は主のイニシャティブ、主の事業なのです。

 

私たちは何者でしょうか。私たちは、常に、「つまらない女性」であることを考え、心をこめ、大きな声で天に向かって「マグニフィカト」を歌いましょう。「主のみが偉大なことをなさいました。主だけが偉大なことをなさいます」

 

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聖マダレナ・カノッサ・年表

 

0歳 1774.3.1   誕生
       北イタリア、ヴェローナカノッサ宮殿にて。
       5人兄妹の第3子として生まれる。
       同年、聖ロレンツォ教会にて受洗。


5歳   1779 父の帰天 

       オッタヴィオ・ディ・カノッサ侯爵が、休暇先にて事故で亡くなる。

 

7歳   1781 母の再婚 
      母テレサが、マントヴァ出身のオドアルド・ザネッティ侯爵と再婚。
      母は5人兄妹を置いてマントヴァへ。

 

     1781 苦悩の思春期がはじまる

 

14歳 1788 体調不良に苦しむ日々をおくる

 

16歳 1790 霊的指導をうける
      この前後、ルイジ・リベラ神父から霊的指導を受けはじめる。

 

17歳 1791 観想修道会で過ごす
      ヴェローナの、跣足カルメル会修道院で10ヶ月程過ごす。
      自分の召命はそこにないと悟る。

 

18歳 1792 再び観想修道会で過ごす
      コネリアーノの、跣足カルメル会修道院で過ごす。
      再び、自分の召命はそにはないと悟る。

 

19歳 1793 カノッサ宮殿の管理者になる

 

20歳 1794 ヴェネチアへ逃げる
       フランス革命の煽りを受けたヴェローナは、戦禍に。
       一家でヴェネチアへ逃げる。

 

20歳 1795 召命のビジョンが夢に
       将来の奉仕する姿、姉妹の姿を夢に見る体験がはじまる。

 

22歳 1797 ナポレオンがカノッサ宮殿へ
      ナポレオンがイタリア遠征の折、宿としてカノッサ宮殿に宿泊。
      聖マダレナ管理者としてが勇敢にもてなす、1805年, 1807年にも再訪。

 

   1797 ヴェローナは戦禍に
       政情不安で、ヴェローナは戦禍の地に。
       人々は徐々に貧しくなってゆく。

 

34歳 1808 サンジュゼッペ修道院を開設
       ヴェローナで貧しい子どもたちへ教育奉仕(学校) がはじまる。

 

38歳 1812 修道院を開設@ヴェネチア
       ヴェネチアでの病院奉仕の開始。

 

42歳 1816 ミラノに修道院を開設。

 

46歳 1820 ベルガモ修道院を開設。

 

54歳 1828 修道会の正式な認可
       修道会がバチカンの正式な認可を受ける。
       教皇レオ12世の勅令”Si nobis” にて。

 

57歳 1831 男子修道会を設立
      ヴェネチアカノッサ男子修道会と神学院を設立。

 

61歳 1835 帰天 (4月10日)
        ヴェローナ修道院にて、受難の金曜日のことだった。

 

1941.12.7 列福 教皇ピウス12世により

 

1988.10.2 列聖 教皇ヨハネ・パウロ2世により

聖マダレナの言葉

聖マダレナ・カノッサの言葉をまとめたPensieri*からのものです。1年間テーマ別に彼女の言葉を味わうことができます。

 

 

1月・2月のテーマ: カノッサ会の精紳、神への愛、沈黙、従順、神のみ心への委託

 

3月・4月のテーマ: 神のみ心への委託、十字架のキリストへの愛

 

 

5月・6月のテーマ: 聖マリアに対する信心、謙遜

 

7月・8月のテーマ: 謙遜、貞潔と礼節、自己放棄、清貧、離脱

canossajapan.hatenablog.com

 

9月・10月のテーマ: 悲しみの聖母への愛、愛の奉仕活動、兄弟愛、神の栄光に対する熱意

canossajapan.hatenablog.com

 

11月・12月: 神の栄光に対する熱意、隣人への愛、会憲の遵守、完徳を目指して

canossajapan.hatenablog.com

 

*"Pensieri" 〜折々のことば〜マダレナ・ディ・カノッサの手記から1965年カノッサ修道女会

聖マダレナとフランス革命

マダレナ・カノッサはなぜ聖人になったのか。それは、彼女の生まれながらの霊性の賜物です。でも彼女が生きた時代背景にもヒントがありそうです。

仏革命は、聖人の故郷ヴェローナに混乱と困窮をもたらします。また、貴族である彼女は実際にナポレオンと対面しています。複雑な当時の社会、出来心を振り返りながら、聖マダレナの霊性を省みましょう。

①ナポレオンのイタリア遠征

フランス革命、ナポレオンのイタリア遠征は、ヴェローナの街を戦禍へ変え、市民は、土地・美術品・建物・女性...多くをを失うことになります。この歴史の渦の中に生まれたのが、聖マダレナ・カノッサ、その人だったのです。さぁ、フランス革命ヴェローナの関係へ!

 

■1405年
ヴェローナヴェネツィア共和国支配下


■1793年1月21日
ルイ16世 ギロチンで処刑。


■1796年4月 
ナポレオンの侵攻 (イタリア遠征)
フランス軍実数約25,000を率いてアルプス山脈を越え、北イタリアへ。ヴェローナはこの後戦禍に。

ナポレオンは、宿としてカノッサ宮殿に宿泊。主として、聖マダレナ・カノッサがもてなす。反キリスト教(革命家) vs 古代よりの信仰の土地

フランス vs 北イタリア仏革命家が、貴重品、食料品、家畜、衣服、文化遺産、美術品、土地・建物、質屋、女性…数多くの物を強奪。また、北イタリアの聖人像などを破壊する。ヴェローナ司教は、聖職者たちに真の自由と国のため説教をするように勧告。更に、国のため教会の全銀食器を溶かすように命ず。

 

②変わり果てるヴェローナの街

ナポレオン率いるフランス軍が、アルプスの山を越え、北イタリアのヴェローナに着きます。歴史的モニュメントや、教会の像... あらゆるものが持ち去られてしまいます。


■4月17日

Veronese Easter(イースターの戦い)

ナポレオン軍の強奪行為に対する、自由軍(市民) の対決のこと。賠償金の支払、美術品等の資産の引渡しを迫り、4月25日反乱は終結。約1週間の戦いで、ヴェローナの街は様変わりする。


ヴェローナカテドラルの「聖母像」事件
革命家たちが、聖母像の王冠の強奪狙っていると知った信心会の人達は。敬虔な職人が一晩で鍛造した金銅の王冠にすり替える。翌朝革命家たちが王冠を奪う際、偽物と気づき像を奪い、高額な身代金を要求した。敬虔な貴族が、自分の名前を明かさないことを条件に、身代金を支払うことを申し出た。

 

■5月12日
ヴェネチア共和国の終わり。最後の総督が、ナポレオンの条件に降伏し退位。


ポルタ・ヌオーヴァでの処刑
Veronese Easter後、ヴェローナの貴族や政治家が革命形によって処刑。

 

■10月 
カンポ=フォルミオの和約

ヴェネチア(ヴェローナ含) はオーストリアへ割譲。

 


■1799年
オーストリア伊を仏から奪還
再びヴェローナは、戦禍となる。


1800年 
ナポレオンの第2次イタリア遠征


■1805年  
ヴェローナの戦い
ナポレオンは遠征の折、宿としてカノッサ宮殿に宿泊 (1807年も) 。
■1815年
ワーテルローの戦い
ナポレオンはプロイセン軍に破れ、流刑。

 


その後北イタリアは、ウィーン体制のもとオーストリアの支配。

編集中