聖バキータの言葉

聖バキータの言葉は、私たちを強くし、信仰の気付きと、勇気をもたらしてくれます。彼女の力強い信仰の言葉を味わいましょう。

 

霊性の泉から

「私が死ななかったのは、この私を素晴らしいことのために用いようとされた、主の奇跡なのです。」

 

 

「人々は私の過去を聞くと、かわいそう...かわいそう...と言います。でも、もっとかわいそうなのは私を苦しめた人です。私を誘拐し、ひどく苦しめた人に会ったら、跪いて接吻するでしょう。あのことがなかったら、私は今、キリスト者でも修道女でもないからです。」

 

「私の同胞のところに飛んで行き、主のいつくしみを皆に伝えることができるなら!」

 

「わたしは父の顔を思い出しません。傷つき、無力な人の泣き叫ぶ声をさらけ出して小屋にいました。主よ、あなたのうちに父を見出すことができます。そして、わたしが失ったすべてのなつかしい人たちと共に父を思い出します。」
 

 


「わたしは空を眺めました。空はわたしの美しい緑の森に鮮やかに微笑みかけて います。こんな美しいものをお造りになったのはどなたでしょう、と自問していました。今、それをわたしは知っています!」

 

「主がお望みのところにわたしを置いてくださいますように。主と共にいる時、主がお望みのところにいる時、わたしはどこでも幸せです。」

 

「主は18歳からのわたしをお裁きになるでしょう。その前は何もありません。なぜなら、洗礼は何もかも取り除きましたから。」
 

 


「わたしをさらった奴隷商人たちや、不当に激しい苦痛を与えた人たちに、もし逢えたら、わたしは跪き、彼らの手に接吻するでしょう。… 
かわいそうな人たち… 彼らは何もわからなかったのでしょう。」
 

 


「おなかが空いていて、食べ物がそばにある時に、わたしは決して頂きませんでした。なぜなら、心の中でそのことをするのは正しいことではないと感じていましたから。」
 


「主はわたしをとても愛してくださいました。わたしは泥の間を通り抜けましたが、一度も汚されることはありませんでした。神の恵みにより常に護られました。最高の御者に護られていました。」
 

 


「そのとおりです。主よ、まさに そのとおりです。わたしは主のもの、主の家のものです。」

 

「わたしは泥の中にいました。わたしは汚されることはありませんでした。神の恵みにより常に護られていました。聖母マリア様がわたしを守ってくださいました。マリア様のことは何も知りませんでしたが。」

 

 

バキータの証言

「その一人が荒々しく片手でわたしを捕まえ、もう一方の手で腰に   差していた大きな刀を引き抜きわたしの脇腹に突き立て、威張った声で 『大声を出すとお前の命はないぞ、さあ おとなしくついてくるがよい』と、わたしに命令しました。もう一人の男は、わたしの背中に銃を向けて無理やりわたしを歩かせました。」
 

 


「彼は、すぐさま わたしたちを旅立たせました。わたしは、どこへ連れられていくのかわかりませんでしたが、草原、空、水、そして自由に空気を呼吸できる喜びは、少しばかり生きる力を与えてくれました。旅は八日間続きました。わたしたちは森や谷、砂漠をいつも徒歩で旅を続けました。 村々を通り過ぎるごとに、キャラバンはますます膨らんでいきました。」
 

 


「もし誰かがしゃがんだり、立ち止まったりするものなら大変なことに なります。哀れな彼らの首、そしてまた仲間の首、皆の首の周りは、鎖で深くえぐられ、傷でただれ、同情を禁じえませんでした。何とかわいそうな人たち… まるで荷物運搬用の駄馬のよう… 」
 

 

 

「ある日、どんなことだったか思い出しませんが、主人の息子に対して大変な失敗をしてしまいました。彼はすぐさま、私を鞭打つために革ひもをつかみました。私は彼の姉妹の後ろに隠れるために、別の部屋に逃げ込みました。ああ、私はなんてことをしたのでしょう。彼は逆上し、そこから私を力づくで 引きずり出し、床に投げつけました。皮鞭と足で数えきれないくらい打ったりけったり、最後には左横腹を足で蹴飛ばし、半死半生のまま放って置きました。私は気絶し、何もわかりませんでした。気を失ってしまいました。女奴隷たちが私の粗末なベッドに寝かせてくれたに違いありません。私は一か月以上もベッドに横たわったままでした。」
 

 


「主人の名誉のために、奴隷たちは身体に刺青した特別の印を受ける習わしがありました。ある日、この残酷な技術の専門の女がやってきました。…  女は、私の胸に6個切り傷を入れました。それから、腹部に60個、右腕に48の切り傷を入れました。私はどんなに感じたか、言葉では言い表すことはできません。刺青の一瞬一瞬が死ぬ思いでした。特に、切り傷に塩をすり込むときの苦痛は極限です。血の海に浸かっている私を寝床に寝かせてくれました。私は何時間も気を失ったままでした。… 意識を取り戻した時、私の傍に仲間たちを見つけました。思うに、彼女たちも激しく苦しんでいるようでした。一か月以上も藁の上に横たわったままでした。私たち三人は身動きもできず、塩のために半開きになっている傷から流れる水を拭くための小さな布切れさえもありませんでした。 」
 


「わたしをすばらしいことのために定めておられた主の奇跡によって、死ななかったのだとはっきり言うことができます。」
 

 

「わたしには自分の名はありませんでした。子供の時に拉致され、売られた時にショックを受けた、あの悲劇的事件の苦痛で名前を忘れてしまっていました。若者になった時に名前を頂きました。洗礼の時に頂いた名前、バキタです。」
 

 

 

「どれほどの黒パン、ただ夢の中で、涙にぬれて。どれほどのパン - 他の人たちの - ひどい目にあって… しぶしぶ与えられた… 」
 


 
「あの時は、本当に幸運でした。新しい主人は非常に善良で、わたしのことをたいへん大事にしてくれました。わたしの任務は、家事の仕事で女中を手伝うことでした。わたしは小言、罰、殴打などを受けませんでしたので、こんなに深い平和と静穏の中に生活できることが、本当のようには思えませんでした。」
 


「わたしはなぜだかその理由は分かりませんが、イタリアという言葉を聞いて主人について行きたいという強い願望が湧いてきました。実は、それまで イタリアという国が美しく、うっとりと魅せられるような国であることなど全然知りませんでした。彼はわたしのことを大事にしてくれていましたから、わたしも思い切って彼と一緒にイタリアに連れて行ってくれるように、お願いする勇気が持てたのです。彼はわたしに旅は長く、費用がかかることを説明して言い聞かせました。それでも、わたしは言い張って聞きませんでしたので、最後にはわたしの願いをかなえてくれました。神様がイタリア行きを望んでおられたのです。そのことは、ずっと後になって分かったことですが、… わたしはあの時経験した喜びを、決して忘れることができません。」
 

 


「かわいそうな人たち、彼らはわたしをとても傷つけているということを知らなかったのです。彼らはわたしの主人、わたしは彼らの奴隷でした。」

 

 

「わたしはアフリカに帰ることはできません。主へのわたしの信仰を守ることができないからです。わたしはミキエリ夫人を慕っておりますし、小さなミンミーナを愛しております。しかし、わたしは神様を捨てることはできません。」

 

アートでみる聖バキータ

聖バキータの生涯と霊性をアートを通して味わいましょう。


      
 『虐げられた者たちの解放』  ティモシー・シュマルツ

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"Let the oppressed go free" by Timothy Schmalz
聖バキータが抑圧の蓋を開け、虐げられた人々を解放する像。現代の社会問題を宗教と絡めながら、意欲的に創作活動を続ける、彫刻家ティモシー・シュマルツの作品です。

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ティモシー・シュマルツとその作品についての記事(英語)wrruralpost.com

 

 

 

編集中...

次の作品もお楽しみに!

 

 

参考資料URL

https://canossianebakhitaschio.org/immagini-artesacra/ 

 


                

奴隷の保護者として

聖バキータの命日・記念日である2月8日はカトリック教会の「人身取引反対の日」です。この日は2015年、教皇フランシスコによって創設されました。


この象徴的な出来事は、なにもシンボルとしての聖人だから...という理由ではありません。日本でも、そして世界でも、今、この時、あなたのすぐ側で... 人身取引、売買、奴隷的立場に追いやられている人が多くいる...という現実を示しています。同時に、カトリック教会が聖バキータの取り継ぎを祈りながら、この現実に立ち向かう...という強い決意の表れでもあります。

                

国際タリタクム

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日本タリタクム 

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日本タリタクム・ユース

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聖バキータの生涯と霊性

近年高まる聖バキータへの関心。彼女は7歳の頃にスーダンでさらわれた後、奴隷として生きた半生を過ごしました。彼女の生い立ち、奴隷としての苦しみ、神との出会い、修道者としての召命の歩みを辿り、霊性を知り深めましょう。

 

1. 幼い時〜スーダン

バキータは1869年、南ダルフールのオルゴッサ、ダジュ族の家庭に6人兄妹の1人として生まれました。姉妹のうちの2人は双子で、バキータは双子の姉でした。彼女はこのように幼少期を振り返っています。

 

「苦しみとは、どんなものかも知らない幸せそのもののわたしでした。」

 

1874年のとある平和な日の昼下がり、一番上のお姉が奴隷商人に攫われてしまいます。バキータが5歳のときの出来事でした。姉が家族のために夕食の準備をしていた時に、奴隷商人が村へやってきて、バキータの姉を含む二人の子供を攫っていきました。あっという間の出来事でした。お姉さん子だったバキータ、家族、そして村の人々は悲しみにくれました。大変感受性が強かったバキータは、それから悲しい出来事を襲った母のために献身的に母を愛し、支えるようになりました。

その2年後の1876年、ぬけるような青空の日、友達と遊びにいった広い草原で今度は彼女も2人の奴隷商人に攫われてしまいます。「あの茂みまで荷物を取りにいってくれないか?」2人の男に言われるまま近くの茂みまで行った時に、背後から掴まれたそうです。

 

「恐ろしさのあまり、私の体は石のように固くなり、動かすことができませんでした。頭のてっぺんから足の指先まで、体中がガタガタ音を立てて震えます。叫ぼうとすると喉が詰まって、声が出ません。1人が腰に刺した短剣を引き抜き、大声を出すと、命はないぞと、落とします。もう1人は私の背後で、銃身をかまえながら、速く歩けとせき立てました。」

 

 

2. 奴隷として

 言葉では言い表せない苦難の日々をこう振り返ります。

「わたしが死ななかったのは、わたしをすばらしいことのために用意された主の奇跡なのです」

ー聖バキータ

 

キャラバンの旅

13年間の奴隷としての日々が始まりです。

実は、バキータという名前は本名ではありません。しかしこの時に彼女を攫ったこの2人組によって名付けられました。その意味は「幸運な人」という意味でした。

 

その後彼女の村から1日歩いた距離にある村で、後1ヶ月間、土間だけの物置小屋に監禁されました。監禁中も、ありったけの力をしぼって脱走を試みましたが、羊飼いにつかまってしまいました。

 

その後、奴隷商人に売り払われます。ある日、情け容赦なくなぐられ、気絶してその場に倒れこみ、いつまでも血の海のなかに放っておかれたこともありました。(7回売買されたとあります。)1ヶ月後の朝、売りに出されました。

 

他の少年少女たちと一緒にされ、旅が始まりました、キャラバンの旅です。旅は徒歩で8日間つづきました。そして奴隷市場に到着しました。この時も、隙を盗み一緒に腐れで繋がれていた 同い年ほどの子供と逃亡しました。木の上に隠れたり、疲労困憊しながらも数日歩きました。「両親のところに連れて行ってあげるから、ここで疲れをとりなさい。」そう彼女に言う男が現れました、家の中で安心し1時間休みました、しかし目を覚ますと足を鎖で繋がれてしまいました、再び捕まったのです。

 

数日間、この男の土間で羊と一緒に過ごしました。そして、奴隷商人がこの場所を通った時に売られました。そこから再びキャラバンで、2週間以上も歩いて移動しました。

 

金持ちの首領

移動した先で、金持ちの首領の館に連れて行かれました。首領には同じようにたくさんの若者の奴隷たちがいました。首領の娘の奴隷として割り当てられました。首領は将来自分の息子が結婚する時に、バキータたちを彼に贈ろうと考えていました。彼女を含め、奴隷たちはこの家で厚遇されていたそうです。

 

しかし、ある日首領の息子に対し、失敗をしてしまいました。

すると息子はバキータを鞭で叩こうとしました。彼女は別の部屋に隠れようとしましたが、引きずり出され床に投げつけられ、皮でできた鞭と足でもって、打ったり蹴ったりしました。最後には左の脇腹を蹴飛ばされ、半死状態のまま放っておかれました。その後、女奴隷たちから介抱してもらいながら、彼女は一ヶ月以上もの間ベッドに横たわり過ごしました。

 

トルコの将軍

それから3ヶ月後、今度はトルコの将軍にバキータは買われます。コルドファンの街での出来事でした。

もう一人共に買われた奴隷と、将軍の母と妻のために割り当てられました。今度の生活は、厚遇されていた前の生活とは正反対で、きつい奴隷生活が待っていました。着付け、化粧、扇での仰ぎ... 片時も休まることなく二人のお世話をしなければなりませんでした。もしも居眠りをしようものなら、鞭が容赦なく彼女たちへ飛んできて.... 生傷が絶えない日々でした。

 

奴隷たちは大部屋の土間に寝かされました。朝は何もなく、昼は肉・ポレンタ・パン・フルーツ、夜は少食...そのように過ごさなければなりませんでした。

 

理不尽な要求にも応えなくてはなりませんでした。将軍が妻の愚痴を言い自身から湧き出る怒りをコントロールできなくなった時、バキータともう一人の奴隷が中庭に呼ばれました。二人が平伏すと、お付きの兵士が力一杯鞭で2人を叩きました。太ももからは肉片が飛び、深い深い傷を作り、何ヶ月も身動きがとれなくなりました。

 

ある日、将軍の妻は、バキータの胸部・腹部・腕などにカミソリで114ヵ所の切れ目を入れ、「傷の入れ墨」をしました。傷口を広げておくために、切り口に塩を強くこすりこむときの苦痛は言葉ではとても言い表せないものでした。血まみれの体は、寝わらの上に移され、傷口からにじみ出る血やうみを拭く一枚の布きれさえ与えられずに、そのまま1ヵ月間も放っておかれました。

 

将軍はその後、トルコに帰還するために多くいた奴隷を整理しはじめます。バキータも整理要員として数えられ、次の主人へと引き渡されます。

 

イタリア領事

彼女は次にハルツームのイタリア領事のもとへ行きました。そこで過ごした日々は、夢のようだったと語ります。生まれて初めて衣服を身にまとわせてもらい、新しい主人はバキータを大切にしてくれました。いままで受けてきたような罵倒、叱責、罰、暴力は一切ありませんでした。

 

彼女は、家の仕事を女中と手伝いながら、平和な日々を過ごしました。

 

2年後、領事は母国イタリアに帰還せざるをえなくなりました。ハンマド・アフマドイスラム復興主義のグループが数週間後にハルツーム地域へ攻めてくるとの知らせがあったからです。彼は、バキータを含む奴隷たちをこの地に残して旅立とうとしていました。

 

しかし、バキータは領事に「イタリアに一緒に連れて行ってください。」そう直談判しました。なぜ住み慣れたアフリカの地を離れて、遠くイタリアまで行こうと思ったのでしょうか...?領事は最初バキータを連れて行っていいものか戸惑いますが、最後には彼女の固い決意に根負けし、奴隷であるバキータをイタリアまで連れて行くことに決めました。

 

 

 

3. イタリアへ

 

1884年のクリスマス直後にハルツームを出発。紅海沿いの街スアキンを目指しました。1ヶ月のキャラバンの旅の末に、1885年1月末には到着しました。スアキン到着の際、ハルツームムハンマド・アフマドたちにより陥落したこと、領事たちの財産や土地はすべて強奪されたこと、残された奴隷たちも奪われてしまったことを知ります。

 

「もし私がそこにいたら、きっとさらわれていたに違いありません。そしてわたしの身の上には何が起こっていたでしょう。」

 

1885年3月中旬、スアキンからイタリアに出向します。

 

ミキエリ家

ジェノバでは領事の妻、ミキエリ夫人が出迎えていまし。夫人は「どうして私にもっとアフリカ人の使いを連れてこなかったの!」と言い始め、観念した領事は自バキータを贈り物としてミキエリ氏に、渡してしまいます。領事はパドヴァに、ミキエリ夫人はバキータを連れてヴェネト州ミラノに向かい、住むことになりました。領事とはこれっきり会うことはありませんでした...。

 

ミラノのミキエリ家に来たバキータ。そして女の赤ちゃんが生まれ、お守りはバキータに任せられました。名前はアリーチェ、愛称ミンミーナです。ミンミーナは大変バキータ懐き、彼女は愛情を注いで娘を可愛がりました。そこでも、平和な日々が続きました。

 

3年後にミンミーナの父親が、アフリカに「ホテル・ミキエリ」を購入。一家はアフリカのスワキンに移住を決め、ミラノに所有する不動産屋は売却を進めることになりました。

 

カノッサ修道女会の教理学校へ

手続きなどの準備のため、夫人は1人、スワキンへと旅立たなくてはなりませんでした。夫人は不在中、ミンミーナとバキータをイタリアに置いていかなくてはなりませんでした。そこで、2人をミキエリ家の財産管理人である、イルミナト・ケッキーニ氏に託します。そこで、どこか二人にふさわしい場所はないか... 探していました。

ベネチアカノッサ修道女会のマードレたちががそれを聞き、カノッサ修道女会の教理学校(カテクメナート)はどうか、ここで2人過ごすことができる...という話が進みここに寄宿することになりました。教理学校へ経つとき、ケッキーニ氏はバキータに銀製の十字架を送りました。

 

「彼は私に十字架を送る時、真心を込めて接吻し、イエス・キリストは私たちのために命を捨てられたことを説明しました。私は不思議な力に惹かれ、誰にも気づかれないようにそっと我を忘れてそれを見つめていたものです。私は言葉では説明できないある神秘を感じていました。」

 

2人はここで寄宿し、教理の勉強しました。子供のほうはすでに洗礼を受けていたのにどうしてバキータをカテクメナートに置いていく必要があったのでしょう、不思議な導きです。

 

教理の先生はシスター・マリア・ファブレッティでした。のちにバキータは彼女を『霊魂の母』と語っています。

 

「シスターは、私がキリスト者になりたいと言う意向で学校に入ったことを聞いて。とても喜んでくださいました。私は幼い頃からどの方かも知らないのに心の内に感じていた、その神様に会うことができました。太陽、月、星、自然の美しさを目にしながら、私は心の中で『こうした美しいもののご主人は一体どなたなのでしょうか?』と考えていたのを思い出します。私はそのご主人を見たい知りたい、そのご主人にお仕えしたい、心から望んでいました。」

 


数ヶ月後、夫人はミラノに戻ってきました。ミンミーナとバキータとともに過ごしながら、不動産屋の売却と家具などを荷造りも進めていました。そして… バキータも共にアフリカのスワキンに行くように求められました。

 

夫人はどんなことがあってもミンミーナとバキータと彼女を、引き離したくはありませんでした。バキータがアフリカへ渡った後も、そこでの生活がしっかりと保証されていましたし、彼女自身も、ミンミーナとは別れがたかったのです。しかし、彼女は『イタリアへ残りたい』という強い意思を持っていました。しかし… バキータは一体「誰の物」「誰の所有物」なのか、ハッキリさせなければならない時が訪れます。

 

1889年11月下旬、バキータの自由が争われます。夫人は自分は彼女の所有者であり、自分が彼女の「主人」であること、彼女は「彼女の奴隷」であることを、はっきりさせるために異議申し立てを行いました。

 

ベニスの大司教ドミニコ・アゴスティーニ枢機卿は、次の次第の報告を受け、教理学校において、至急に集会を招集しました。参加者は、大司教、裁判官、修道院のシスターたち、指導者たち、ミキエリ夫人、ミンミーナ、バキータでした。この争いは3日間続きました。

 

 

 

自由の身

大司教はこう争いを締めくくりました。
「イタリアでは奴隷の取引はしません。1人の奴隷が、イタリア王国イタリア王国に足を踏み入れたその瞬間に、自由の民となります。私今ここで、正式に彼女は自由であることを表明します。したがって、行くか行かないかは、本人が自分の意思で決めなさい。」


1889年11月29日、彼女は自由の身となります。彼女は自分の意思で自分の人生を選び取りました。アフリカにはいかず、ミンミーナとの別れを決断、イタリアに留まることを選びました。バキータはイタリアに留まり教理の勉強をし、前々から感じていた大いなる存在を答え合わせをするように過ごします。


1890年1月9日、受洗。洗礼名はジュッゼッピーナ・マルガリータ・マリア・バキータ、18歳のことでした。ベニス大司教ドミニコ・アゴスティーニ枢機卿によって、洗礼、堅信、聖体の秘跡が授けられました。ベネチアのお偉い方が競って彼女の代母へと志願したそうです。


ベネチアに来てからの親友ジュリア・デッラ・フォンテ夫人は、式の様子をこう述べます。「彼女は幸せでした。彼女の顔にはいつものあの哀愁を帯びた表情は全くなく、喜びに輝いていました。顔つきまでが変わったようでした。」

 

4. 修道者として

誓願

その後あのケッキーニ氏が、バキタを家族の一員にしたいと申し出ました。「ジュッゼッピーナ、実質的に私たちの家族の一員になることを受け入れてもらえないだろうか?言い換えれば私は君のお父さん、妻は、君のお母さん、私の家は君の家ということになる。私の死後、遺産相続の権利も得ることになるわけです。」彼女はこの提言を受け入れませんませんでした。何故でしょうか… きっと既に何かを決め込んでいたのかもしれません。


彼女はカノッサ修道女回のシスターになりたいと希望していました。入会許可の願書はすぐに受理されました。ヴェローナのカーサ・マドレ修道院長が志願者に修道服を着せ、誓願の宣言を受理したいと願い出ました。

 

1896年12月8日、シスター・ジュッゼッピーナ・バキータは、カノッサ修道女会の創立者マダレナ・カノッサが過ごした修道院誓願をたてました。『マドレ・モレッタ』イタリア語で『黒いシスター』人々は親しみを込めてこう呼びました。

 

 

修道生活

1902年、誓願後まもなくして、彼女はベネチアからスキオの修道院へ移ることとなりました。1902年のを回行くことになりました。霊魂の母であるマリア・ファブレッティと、別れることは寂しいことでした。

 

 

霊性

スキオ修道院で、彼女は様々な任務に携わりました。刺繍、炊事、玄関係、神戸屋係などです。彼女は、そのどの仕事にも、霊的、1時以降思ってあたり、不思議な何かに包まれ輝いていました。彼女は、「多くのことを行った。それは多くの愛佳愛多く愛したから…、」また、「日々の単純な務め、小さなことの中で成人になった」と言うことができます。

 


彼女はただそこに居る、それだけで人を魅了するとても不思議な魅力をもった人でした。これは誰もがそう答えるくらい確かな事だったそうです。彼女が修道院の受付係だったり、台所の仕事をしたりするだけ、それだけでとても魅力的な人だったのです。(だからとても不思議なのです!)

 

彼女の霊性や魅力について、色々な紹介文に明確に記されていない・記せない理由はこの存在の尊さでしょう。目立たずに、小さく、偉大な方法で、神の栄光を讃えながら日々を生きたのです。

 

幼稚園の園児や母親たちは、一言でいいから、マドレ・モレッタとお話ししたい...近くに行きたい...そう思っていたそうです。いつも素敵な彼女はオラトリオでも人気の的でした。生徒たちは彼女を囲み「マドレ・モレッタ、面白い話をして」とねだりました。そんな時にバキータら「ヘブライ人ヨセフの話」をしました。この話は彼女の十八番でした。

 


彼女の才能の中で最も目立っていた、天性のものと言えるもの1つに、話術があったそうです。1910年、隙を修道院に置いて彼女が語った、口述筆記信頼できる唯一の歴史的文献、では、無類の現実的な写実の叙情詩です叙述です上述です籠に閉じ込められてたときや。刺青を掘るときの、彼女の自然な感情のほとばしりには、誰もが深く感動し、恐怖に身を震わせます。彼女が好きなイエス様の話、それは山上の垂訓の中のこの一言でした。

 

「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」マタイ福音書5章3節

 


バキータの修道生活50周年は世界大戦真っ只中、1943年10月8日のことでした。この日は修道院だけではなく、スキオの街をあげて祝われました。

 


この日を境に、彼女の健康は次第に弱まっていきます。歩きから杖、杖から車椅子、そして床に伏せることが多くなっていきます。1947年2月上旬に急性肺炎にかかり、容態は急速に悪化。病者の塗油の秘跡は?と尋ねると「はい、お願いします。私も一緒にお願いお祈りしたいから。」と答えたそうです。

 


高熱と昏睡状態の中で、「お願い鎖を緩めて思い…」そうつぶやいていたそうです。しかし意識を取り戻すと、お見舞いに来ていた姉妹たちを穏やかに迎えました。最期、息を引き取る少し前に具合を尋ねると彼女は、はっきり答えました。

 


「ゆっくり、ゆっくり、永遠の国へ参ります。2個のトランクを持っていきます。その1つには、私の罪が入ってます。もう一つのものは、とても重く、イエス様の無限の孤独が入っています。神様の法廷に出る時、私の汚いトランクを隠しましょう。それから、もう一つのトランクを開いてイエス様の功徳を差し出しましょう。そして永遠の御父である神様に申し上げましょう。『あなたがご覧になっているものを、どうかをさばきくださいませ。』と、神様は、決して送り返さないでしょう。それから私は、聖ペトロの方へ向きを変えて押しましょう。『どうぞ、扉をお閉めください。私はここに留まります。』」

 

 

5. 帰天

 

スキオの街に彼女の帰天が知らされました。

1947年2月8日土曜日の20時10分のことでした。

 

この知らせはスキオだけではなく、イタリア、そして世界に瞬く間に広まりました。人々は、私の私たちのシスターにひと目会いたい。そして自分たちの守護者にお礼を言いたいと思いました。全市民が『マドレ・モレッタ』に敬意を表したのです。

 

今もバキータの遺体はカノッサ修道女会の修道院の聖堂に、安置されています。それは街の人々の誇りでもあります。

→巡礼へ

 

 

尊者

生前から「聖人だ」と言われていたバキータの調査が始まります。修道院の姉妹たち、街の人々、沢山の人々の証言が教会によって集められました。1978年12月教皇ヨハネ・パウロ2世によって、バキータは尊者となることが公にされました。

 

 

列福

1992年5月17日には、福者になることが同じく教皇ヨハネ・パウロ2世によって宣言されます。教皇は、彼女を全世界と教会に「万人のための姉妹」「皆のシスター」として紹介しました。

 

1993年2月10日、スーダンハルツーム

教皇ヨハネ・パウロ2世使徒的巡礼のためアフリカのこの地に降り立ちます。バキータは聖遺物箱の姿になり、故郷に錦を飾ります。教皇ハルツーム大司教ガブリエル・ズベイル・カズコ、100万人のスーダンの人々が出迎えました。

 

 

列聖

2000年10月1日、列聖。

スーダンの少女は「聖バキータ」となりました。

 

 

[参考文献]

『マードレ・ヨセフィナ・バキタ』カノッサ修道女会 1993年

 

 

巡礼〜聖バキータを訪ねて〜

「本日はカノッサ修道女会の聖バキータ巡礼ツアーにお集まりくださり、ありがとうございます。私は添乗員のSr.幸(さち)と申します。まずはスキオの町を見渡す丘にご案内いたします。」

 

「オンラインではありますが、実り多き巡礼ツアーお楽しみくださいませ!」

 

 

スキオの町

スキオの街は聖バキータがイタリアに渡ってから、長年暮らした町で、北イタリアのヴェネト州ヴィチェンツァ県にある、人口約4万人の小さな町です。ご参考までに、スキオは青森県三沢市ほどの人口規模です。 っとい言っている間に...街の高台に到着いたしました。見てください!この絶景。

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「この小さな街の、小さな修道院に巡礼者が絶えない理由、それは聖バキータが執りなしで、希望、励まし、癒し...を頂けるからでなはいでしょうか。バキータから「一言の慰め」が頂けるように祈りながら、わたくし添乗員のSr.幸との巡礼をすすめていきましょう。」

 

「さて、次は修道院とチャペルに参りましょう。」

 

「ここは、聖バキータのチャペルです。」

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「中を見学してみましょう。こちらへアクセスしてください。内部見学ができますよ。」

canossianebakhitaschio.org

 

 

 

「こちらは、聖バキータが長年生活した場所です...。 」

 

Sr.幸エスプレッソで休憩中....

 

 

■Shrine of St. Bakhita  / 参考資料URL                  
https://canossianebakhitaschio.org/visita-santuario/                
                    

2-1 先発隊の準備

司教様は中学校・高等学校を望んでいました。

しかもすぐに望んでいました。

 

 

シスター ノヴェッロは学校を考えていましたが、折りを見て始めることを考えていました。まずは、学校に適した姉妹たちのグループを準備する必要がありました。新しい国で よく考えずに、行動すべきではないこと、ことに現代においては慎重に考える必要がありました。

 

さしあたり、第一のグループが道を開き、続いて他の姉妹たちが加わることにするのです。

 

 

もう一つ、シスター ノヴェッロにとっての問題は、
   誰を派遣するのか。
   何人の姉妹たちを?

 


それより、主は誰が行くのをお望みなのか? シスター ノヴェッロは祈りました。皆に祈りを頼みました。そして神の摂理を待っていました。

 

 

その間、香港とマカオの全共同体では新しい国での修道院開設に必要な物の準備が始まり、そのことに全力を尽くしていました。ある共同体は聖堂や香部屋に必要な物を準備する任務を託され、ある共同体は衣類収納室を考えました。

 

最初に診療所の準備が必要と考えられ、医薬品を多く準備する姉妹がいました。

 

 

いまだ、誰が日本に行くのか分かりませんでした。
シスター フラングエッリはこれらすべてを準備するためのリーダーでした。しかし、彼女自身が創立のために行くように指名されたのを知ると、それまでの任務を他の姉妹たちに任せて、こう言ったのです。「私はもう準備するためではなく、これから私に与えられることを受け入れる心の準備をしなければなりません」

 

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1-3 1950年

1950年、M.アントニエッタ・ノヴェッロと、当時 カノッサマカオの地区長であったM.テレジナ・フラングエッリは、実地調査のために日本に出かけます。二人は大満足で帰ってきます。日本はカノッサ会シスターたちを待っています…。南の大きな島(九州)に、とても美しい町、大牟田があります。そこに最初のカノッサ会シスターたちが行きます。

 

深堀司教はM.ノヴェッロにいくつかの地域を訪問して、その中から選択するように勧めました。M.ノヴェッロは田園地帯にあり、人口が多いこと、とりわけ、他のカトリック的中心地から離れている大牟田を選びました。
 


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