近年高まる聖バキータへの関心。彼女は7歳の頃にスーダンでさらわれた後、奴隷として生きた半生を過ごしました。彼女の生い立ち、奴隷としての苦しみ、神との出会い、修道者としての召命の歩みを辿り、霊性を知り深めましょう。
バキータは1869年、南ダルフールのオルゴッサ、ダジュ族の家庭に6人兄妹の1人として生まれました。姉妹のうちの2人は双子で、バキータは双子の姉でした。彼女はこのように幼少期を振り返っています。
「苦しみとは、どんなものかも知らない幸せそのもののわたしでした。」
1874年のとある平和な日の昼下がり、一番上のお姉が奴隷商人に攫われてしまいます。バキータが5歳のときの出来事でした。姉が家族のために夕食の準備をしていた時に、奴隷商人が村へやってきて、バキータの姉を含む二人の子供を攫っていきました。あっという間の出来事でした。お姉さん子だったバキータ、家族、そして村の人々は悲しみにくれました。大変感受性が強かったバキータは、それから悲しい出来事を襲った母のために献身的に母を愛し、支えるようになりました。
その2年後の1876年、ぬけるような青空の日、友達と遊びにいった広い草原で今度は彼女も2人の奴隷商人に攫われてしまいます。「あの茂みまで荷物を取りにいってくれないか?」2人の男に言われるまま近くの茂みまで行った時に、背後から掴まれたそうです。
「恐ろしさのあまり、私の体は石のように固くなり、動かすことができませんでした。頭のてっぺんから足の指先まで、体中がガタガタ音を立てて震えます。叫ぼうとすると喉が詰まって、声が出ません。1人が腰に刺した短剣を引き抜き、大声を出すと、命はないぞと、落とします。もう1人は私の背後で、銃身をかまえながら、速く歩けとせき立てました。」
2. 奴隷として
言葉では言い表せない苦難の日々をこう振り返ります。
「わたしが死ななかったのは、わたしをすばらしいことのために用意された主の奇跡なのです」
ー聖バキータ
キャラバンの旅
13年間の奴隷としての日々が始まりです。
実は、バキータという名前は本名ではありません。しかしこの時に彼女を攫ったこの2人組によって名付けられました。その意味は「幸運な人」という意味でした。
その後彼女の村から1日歩いた距離にある村で、後1ヶ月間、土間だけの物置小屋に監禁されました。監禁中も、ありったけの力をしぼって脱走を試みましたが、羊飼いにつかまってしまいました。
その後、奴隷商人に売り払われます。ある日、情け容赦なくなぐられ、気絶してその場に倒れこみ、いつまでも血の海のなかに放っておかれたこともありました。(7回売買されたとあります。)1ヶ月後の朝、売りに出されました。
他の少年少女たちと一緒にされ、旅が始まりました、キャラバンの旅です。旅は徒歩で8日間つづきました。そして奴隷市場に到着しました。この時も、隙を盗み一緒に腐れで繋がれていた 同い年ほどの子供と逃亡しました。木の上に隠れたり、疲労困憊しながらも数日歩きました。「両親のところに連れて行ってあげるから、ここで疲れをとりなさい。」そう彼女に言う男が現れました、家の中で安心し1時間休みました、しかし目を覚ますと足を鎖で繋がれてしまいました、再び捕まったのです。
数日間、この男の土間で羊と一緒に過ごしました。そして、奴隷商人がこの場所を通った時に売られました。そこから再びキャラバンで、2週間以上も歩いて移動しました。
金持ちの首領
移動した先で、金持ちの首領の館に連れて行かれました。首領には同じようにたくさんの若者の奴隷たちがいました。首領の娘の奴隷として割り当てられました。首領は将来自分の息子が結婚する時に、バキータたちを彼に贈ろうと考えていました。彼女を含め、奴隷たちはこの家で厚遇されていたそうです。
しかし、ある日首領の息子に対し、失敗をしてしまいました。
すると息子はバキータを鞭で叩こうとしました。彼女は別の部屋に隠れようとしましたが、引きずり出され床に投げつけられ、皮でできた鞭と足でもって、打ったり蹴ったりしました。最後には左の脇腹を蹴飛ばされ、半死状態のまま放っておかれました。その後、女奴隷たちから介抱してもらいながら、彼女は一ヶ月以上もの間ベッドに横たわり過ごしました。
トルコの将軍
それから3ヶ月後、今度はトルコの将軍にバキータは買われます。コルドファンの街での出来事でした。
もう一人共に買われた奴隷と、将軍の母と妻のために割り当てられました。今度の生活は、厚遇されていた前の生活とは正反対で、きつい奴隷生活が待っていました。着付け、化粧、扇での仰ぎ... 片時も休まることなく二人のお世話をしなければなりませんでした。もしも居眠りをしようものなら、鞭が容赦なく彼女たちへ飛んできて.... 生傷が絶えない日々でした。
奴隷たちは大部屋の土間に寝かされました。朝は何もなく、昼は肉・ポレンタ・パン・フルーツ、夜は少食...そのように過ごさなければなりませんでした。
理不尽な要求にも応えなくてはなりませんでした。将軍が妻の愚痴を言い自身から湧き出る怒りをコントロールできなくなった時、バキータともう一人の奴隷が中庭に呼ばれました。二人が平伏すと、お付きの兵士が力一杯鞭で2人を叩きました。太ももからは肉片が飛び、深い深い傷を作り、何ヶ月も身動きがとれなくなりました。
ある日、将軍の妻は、バキータの胸部・腹部・腕などにカミソリで114ヵ所の切れ目を入れ、「傷の入れ墨」をしました。傷口を広げておくために、切り口に塩を強くこすりこむときの苦痛は言葉ではとても言い表せないものでした。血まみれの体は、寝わらの上に移され、傷口からにじみ出る血やうみを拭く一枚の布きれさえ与えられずに、そのまま1ヵ月間も放っておかれました。
将軍はその後、トルコに帰還するために多くいた奴隷を整理しはじめます。バキータも整理要員として数えられ、次の主人へと引き渡されます。
イタリア領事
彼女は次にハルツームのイタリア領事のもとへ行きました。そこで過ごした日々は、夢のようだったと語ります。生まれて初めて衣服を身にまとわせてもらい、新しい主人はバキータを大切にしてくれました。いままで受けてきたような罵倒、叱責、罰、暴力は一切ありませんでした。
彼女は、家の仕事を女中と手伝いながら、平和な日々を過ごしました。
2年後、領事は母国イタリアに帰還せざるをえなくなりました。ハンマド・アフマドのイスラム復興主義のグループが数週間後にハルツーム地域へ攻めてくるとの知らせがあったからです。彼は、バキータを含む奴隷たちをこの地に残して旅立とうとしていました。
しかし、バキータは領事に「イタリアに一緒に連れて行ってください。」そう直談判しました。なぜ住み慣れたアフリカの地を離れて、遠くイタリアまで行こうと思ったのでしょうか...?領事は最初バキータを連れて行っていいものか戸惑いますが、最後には彼女の固い決意に根負けし、奴隷であるバキータをイタリアまで連れて行くことに決めました。
3. イタリアへ
1884年のクリスマス直後にハルツームを出発。紅海沿いの街スアキンを目指しました。1ヶ月のキャラバンの旅の末に、1885年1月末には到着しました。スアキン到着の際、ハルツームはムハンマド・アフマドたちにより陥落したこと、領事たちの財産や土地はすべて強奪されたこと、残された奴隷たちも奪われてしまったことを知ります。
「もし私がそこにいたら、きっとさらわれていたに違いありません。そしてわたしの身の上には何が起こっていたでしょう。」
1885年3月中旬、スアキンからイタリアに出向します。
ミキエリ家
ジェノバでは領事の妻、ミキエリ夫人が出迎えていまし。夫人は「どうして私にもっとアフリカ人の使いを連れてこなかったの!」と言い始め、観念した領事は自バキータを贈り物としてミキエリ氏に、渡してしまいます。領事はパドヴァに、ミキエリ夫人はバキータを連れてヴェネト州ミラノに向かい、住むことになりました。領事とはこれっきり会うことはありませんでした...。
ミラノのミキエリ家に来たバキータ。そして女の赤ちゃんが生まれ、お守りはバキータに任せられました。名前はアリーチェ、愛称ミンミーナです。ミンミーナは大変バキータ懐き、彼女は愛情を注いで娘を可愛がりました。そこでも、平和な日々が続きました。
3年後にミンミーナの父親が、アフリカに「ホテル・ミキエリ」を購入。一家はアフリカのスワキンに移住を決め、ミラノに所有する不動産屋は売却を進めることになりました。
カノッサ修道女会の教理学校へ
手続きなどの準備のため、夫人は1人、スワキンへと旅立たなくてはなりませんでした。夫人は不在中、ミンミーナとバキータをイタリアに置いていかなくてはなりませんでした。そこで、2人をミキエリ家の財産管理人である、イルミナト・ケッキーニ氏に託します。そこで、どこか二人にふさわしい場所はないか... 探していました。
ベネチアのカノッサ修道女会のマードレたちががそれを聞き、カノッサ修道女会の教理学校(カテクメナート)はどうか、ここで2人過ごすことができる...という話が進みここに寄宿することになりました。教理学校へ経つとき、ケッキーニ氏はバキータに銀製の十字架を送りました。
「彼は私に十字架を送る時、真心を込めて接吻し、イエス・キリストは私たちのために命を捨てられたことを説明しました。私は不思議な力に惹かれ、誰にも気づかれないようにそっと我を忘れてそれを見つめていたものです。私は言葉では説明できないある神秘を感じていました。」
2人はここで寄宿し、教理の勉強しました。子供のほうはすでに洗礼を受けていたのにどうしてバキータをカテクメナートに置いていく必要があったのでしょう、不思議な導きです。
教理の先生はシスター・マリア・ファブレッティでした。のちにバキータは彼女を『霊魂の母』と語っています。
「シスターは、私がキリスト者になりたいと言う意向で学校に入ったことを聞いて。とても喜んでくださいました。私は幼い頃からどの方かも知らないのに心の内に感じていた、その神様に会うことができました。太陽、月、星、自然の美しさを目にしながら、私は心の中で『こうした美しいもののご主人は一体どなたなのでしょうか?』と考えていたのを思い出します。私はそのご主人を見たい知りたい、そのご主人にお仕えしたい、心から望んでいました。」
数ヶ月後、夫人はミラノに戻ってきました。ミンミーナとバキータとともに過ごしながら、不動産屋の売却と家具などを荷造りも進めていました。そして… バキータも共にアフリカのスワキンに行くように求められました。
夫人はどんなことがあってもミンミーナとバキータと彼女を、引き離したくはありませんでした。バキータがアフリカへ渡った後も、そこでの生活がしっかりと保証されていましたし、彼女自身も、ミンミーナとは別れがたかったのです。しかし、彼女は『イタリアへ残りたい』という強い意思を持っていました。しかし… バキータは一体「誰の物」「誰の所有物」なのか、ハッキリさせなければならない時が訪れます。
1889年11月下旬、バキータの自由が争われます。夫人は自分は彼女の所有者であり、自分が彼女の「主人」であること、彼女は「彼女の奴隷」であることを、はっきりさせるために異議申し立てを行いました。
ベニスの大司教ドミニコ・アゴスティーニ枢機卿は、次の次第の報告を受け、教理学校において、至急に集会を招集しました。参加者は、大司教、裁判官、修道院のシスターたち、指導者たち、ミキエリ夫人、ミンミーナ、バキータでした。この争いは3日間続きました。
自由の身
大司教はこう争いを締めくくりました。
「イタリアでは奴隷の取引はしません。1人の奴隷が、イタリア王国イタリア王国に足を踏み入れたその瞬間に、自由の民となります。私今ここで、正式に彼女は自由であることを表明します。したがって、行くか行かないかは、本人が自分の意思で決めなさい。」
1889年11月29日、彼女は自由の身となります。彼女は自分の意思で自分の人生を選び取りました。アフリカにはいかず、ミンミーナとの別れを決断、イタリアに留まることを選びました。バキータはイタリアに留まり教理の勉強をし、前々から感じていた大いなる存在を答え合わせをするように過ごします。
1890年1月9日、受洗。洗礼名はジュッゼッピーナ・マルガリータ・マリア・バキータ、18歳のことでした。ベニス大司教ドミニコ・アゴスティーニ枢機卿によって、洗礼、堅信、聖体の秘跡が授けられました。ベネチアのお偉い方が競って彼女の代母へと志願したそうです。
ベネチアに来てからの親友ジュリア・デッラ・フォンテ夫人は、式の様子をこう述べます。「彼女は幸せでした。彼女の顔にはいつものあの哀愁を帯びた表情は全くなく、喜びに輝いていました。顔つきまでが変わったようでした。」
4. 修道者として
その後あのケッキーニ氏が、バキタを家族の一員にしたいと申し出ました。「ジュッゼッピーナ、実質的に私たちの家族の一員になることを受け入れてもらえないだろうか?言い換えれば私は君のお父さん、妻は、君のお母さん、私の家は君の家ということになる。私の死後、遺産相続の権利も得ることになるわけです。」彼女はこの提言を受け入れませんませんでした。何故でしょうか… きっと既に何かを決め込んでいたのかもしれません。
彼女はカノッサ修道女回のシスターになりたいと希望していました。入会許可の願書はすぐに受理されました。ヴェローナのカーサ・マドレ修道院長が志願者に修道服を着せ、誓願の宣言を受理したいと願い出ました。
1896年12月8日、シスター・ジュッゼッピーナ・バキータは、カノッサ修道女会の創立者マダレナ・カノッサが過ごした修道院で誓願をたてました。『マドレ・モレッタ』イタリア語で『黒いシスター』人々は親しみを込めてこう呼びました。
修道生活
1902年、誓願後まもなくして、彼女はベネチアからスキオの修道院へ移ることとなりました。1902年のを回行くことになりました。霊魂の母であるマリア・ファブレッティと、別れることは寂しいことでした。
スキオ修道院で、彼女は様々な任務に携わりました。刺繍、炊事、玄関係、神戸屋係などです。彼女は、そのどの仕事にも、霊的、1時以降思ってあたり、不思議な何かに包まれ輝いていました。彼女は、「多くのことを行った。それは多くの愛佳愛多く愛したから…、」また、「日々の単純な務め、小さなことの中で成人になった」と言うことができます。
彼女はただそこに居る、それだけで人を魅了するとても不思議な魅力をもった人でした。これは誰もがそう答えるくらい確かな事だったそうです。彼女が修道院の受付係だったり、台所の仕事をしたりするだけ、それだけでとても魅力的な人だったのです。(だからとても不思議なのです!)
彼女の霊性や魅力について、色々な紹介文に明確に記されていない・記せない理由はこの存在の尊さでしょう。目立たずに、小さく、偉大な方法で、神の栄光を讃えながら日々を生きたのです。
幼稚園の園児や母親たちは、一言でいいから、マドレ・モレッタとお話ししたい...近くに行きたい...そう思っていたそうです。いつも素敵な彼女はオラトリオでも人気の的でした。生徒たちは彼女を囲み「マドレ・モレッタ、面白い話をして」とねだりました。そんな時にバキータら「ヘブライ人ヨセフの話」をしました。この話は彼女の十八番でした。
彼女の才能の中で最も目立っていた、天性のものと言えるもの1つに、話術があったそうです。1910年、隙を修道院に置いて彼女が語った、口述筆記信頼できる唯一の歴史的文献、では、無類の現実的な写実の叙情詩です叙述です上述です籠に閉じ込められてたときや。刺青を掘るときの、彼女の自然な感情のほとばしりには、誰もが深く感動し、恐怖に身を震わせます。彼女が好きなイエス様の話、それは山上の垂訓の中のこの一言でした。
「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」マタイ福音書5章3節
バキータの修道生活50周年は世界大戦真っ只中、1943年10月8日のことでした。この日は修道院だけではなく、スキオの街をあげて祝われました。
この日を境に、彼女の健康は次第に弱まっていきます。歩きから杖、杖から車椅子、そして床に伏せることが多くなっていきます。1947年2月上旬に急性肺炎にかかり、容態は急速に悪化。病者の塗油の秘跡は?と尋ねると「はい、お願いします。私も一緒にお願いお祈りしたいから。」と答えたそうです。
高熱と昏睡状態の中で、「お願い鎖を緩めて思い…」そうつぶやいていたそうです。しかし意識を取り戻すと、お見舞いに来ていた姉妹たちを穏やかに迎えました。最期、息を引き取る少し前に具合を尋ねると彼女は、はっきり答えました。
「ゆっくり、ゆっくり、永遠の国へ参ります。2個のトランクを持っていきます。その1つには、私の罪が入ってます。もう一つのものは、とても重く、イエス様の無限の孤独が入っています。神様の法廷に出る時、私の汚いトランクを隠しましょう。それから、もう一つのトランクを開いてイエス様の功徳を差し出しましょう。そして永遠の御父である神様に申し上げましょう。『あなたがご覧になっているものを、どうかをさばきくださいませ。』と、神様は、決して送り返さないでしょう。それから私は、聖ペトロの方へ向きを変えて押しましょう。『どうぞ、扉をお閉めください。私はここに留まります。』」
5. 帰天
スキオの街に彼女の帰天が知らされました。
1947年2月8日土曜日の20時10分のことでした。
この知らせはスキオだけではなく、イタリア、そして世界に瞬く間に広まりました。人々は、私の私たちのシスターにひと目会いたい。そして自分たちの守護者にお礼を言いたいと思いました。全市民が『マドレ・モレッタ』に敬意を表したのです。
今もバキータの遺体はカノッサ修道女会の修道院の聖堂に、安置されています。それは街の人々の誇りでもあります。
→巡礼へ
尊者
生前から「聖人だ」と言われていたバキータの調査が始まります。修道院の姉妹たち、街の人々、沢山の人々の証言が教会によって集められました。1978年12月教皇ヨハネ・パウロ2世によって、バキータは尊者となることが公にされました。
1992年5月17日には、福者になることが同じく教皇ヨハネ・パウロ2世によって宣言されます。教皇は、彼女を全世界と教会に「万人のための姉妹」「皆のシスター」として紹介しました。
1993年2月10日、スーダン・ハルツーム。
教皇ヨハネ・パウロ2世は使徒的巡礼のためアフリカのこの地に降り立ちます。バキータは聖遺物箱の姿になり、故郷に錦を飾ります。教皇、ハルツーム大司教ガブリエル・ズベイル・カズコ、100万人のスーダンの人々が出迎えました。
列聖
2000年10月1日、列聖。
スーダンの少女は「聖バキータ」となりました。
[参考文献]
『マードレ・ヨセフィナ・バキタ』カノッサ修道女会 1993年